昭和50年07月07日 朝の御理解
御神訓 一、「やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ。」
やれ痛やと言う事。そこに痛いという難儀を感ずる。例えばお商売をしておる者が、損をすると言った様な場合でも、矢張り是はやれ痛やにつながる訳です。色々な心に難儀を感ずるなら、その難儀はいわばやれ痛やであります。だからそういう時に今おかげを頂いておるんだ、是がおかげだと実感できると言う事は、大変信心が進んで本当の御神意、御神愛というものが分からないと、中々有り難いという心に成って来ない。
それで私は思うんですけれども、やれ痛やという時に心の底から、神様済みませんとこう、お詫びの出来る所まで位は、一つおかげを頂きたいですね。痛い思いをする時苦しい思いをする時、難儀をそこに感ずる時、有難う御座いますとは、中々信心も難しいというのは、そう言う様な御教えがあるここに。例えば損したつにどうしてお礼がでるかというのですけれども、不思議な事に信心が段々解って参りましてです。
いや信心が分かると言う事は、神様のお心が分かって参りますとです、本当に有難う御座いますであり、又は相済みませんと言う事に成って来るんです。だから叩かれた時に「ああいた」っという前に、「すみません」が出る、この位の所は一つ頂きたいですね。「どうして叩くか」と、どうしてとこう反発する心にはおかげは頂きません。叩かれた時に「すみません」。決してね無茶苦茶に叩く筈はないです。
そこに何か気付かせて下さろう、おかげを下さろうとする働きがあるからこそ、難儀というものがあるんだと、私は思うんす。だから難あって喜べとか、難はみかげというふうに教えられるわけです。難そのものは、おかげと思われませんけれども、その難によって磨かれる、難によって本当な事が分かっていくから有り難いです。昨日日曜ですから、特別奉修委員の方達の御祈念がございます。その後での御理解でしたけれども、私御神前で御祈念をさせて貰いよりましたら『欲求不満』と言う事を頂いたです。
それはどう言う様な事かというと、今合楽によその教会のご信者さん方が、合楽合楽というてみんな参ってくるのは、おかげに繋がるみ教えが頂けると言う事。私は合楽の御理解は分からせると言う事よりも、おかげに繋がるんだ。だから分かっても分からんでも、おかげ頂きよるです。もう不思議におかげ頂いてるです。その上また噛んで含めるように頂くのですから、分かると言う事にもなる。
いうならばそういう、いろんな教会にお参りさせて頂いても、ただお参りをしてお願いをしてくるだけ。み教えは頂かれん御理解は頂かれん。そこに矢張り欲求不満がある訳です。そこで合楽ではそれが満たされる所に、合楽合楽というて見えられるのではないかと思います。所が合楽で一生懸命信心の稽古をなさって、それこそ朝昼晩にいうならばここ合楽二十五、六年になりますけれども、一回だって同じ御理解を頂いた事がないと言う事ですよ。しかもいつ頂いてもです。
だからいうならば斬新さというか、そういう教祖のみ教えお言葉の深さ広さと言うものに触れて行く事が出来るのです。今日のこの「やれ痛や今みかげを」という、み教えについてもです。有り難いと思わなければならない訳合いを、あらゆる角度から今まで説いて頂いたけれども、やれ痛やという事は、中々難しいけれども、叩かれた「あ痛」という前に済みませんと言う、そう言う位な信心は早く頂けと言った様な風に、このみ教えを頂いた事は初めてです。
このご神訓によっては、やれ痛やすいません、やれ痛や今みかげをよと思うて、有り難いというお礼というのはそれは通じるのです。お道の信心ではお礼お詫び願いと言われますが、願いでもお礼でもお詫びでも、通うたら神様に通じたらおかげになるのです。だから結論すると同じです。「すいません」とお詫びを本当にさせて頂いて、そのすいませんが通じれば、いわば「詫びれば許してやりたいのが親心」と仰るから、詫びるが許された時におかげになるのです。
ほりゃ一生懸命熱烈な御祈念をさせてもろうて、それこそ一生懸命の御祈念をして願わしてもらうというか。そのあまりにも一生懸命願うから、おかげにつながるです。お礼をいうでもそうです。有り難い。普通では有り難くない事にでも、有り難いとお礼を言うような、そのお礼をいう心にです。神様がこん位もんばあげん喜ぶから、今度はいっちょおかげば、まいっちょやらじゃこてと言った様な働きが生まれて来る訳です。
だからお礼もお詫びも願いも、実をいうと答えにおいて、おかげという事においては、同じ答えが出てくるんです。けれどもねすいませんといえども、どうそどうぞお願いしますというよりもです。一番気分の良いのは、有り難いというお礼です。有難う御座いますとお礼をいう心ほど、有り難いいうならば喜びに満ちた心が、自ずと有り難う御座いますと言う事になってくるのですから、一番救われた状態です。助かった状態です。すいませんという時はまだ責められとるという感じがする。
願うという時にはとにかく苦しいまぎれと言う様な感じが致します。けれども御礼と言う事になるとです。心が喜びで満ちておる。それが言葉をついて、心の中から有り難う御座いますという、勿体ない事ですという心の状態ですから、これは本当に救われ助かる。おかげと言う事においては変わりはない。そこで私は昨日、奉修委員の方達に聞いて頂いた事ですけれども、よそから参ってくる方達は。
いうなら御理解み教えを頂くと言う事の欲求不満。合楽で永年信心の稽古をしておる人達は、こがしこ一生懸命参りよるとに、まちっとくらい垢抜けしたおかげ頂いてよかろそうなもんと言った様なものが、心の底にないじゃない、あるんだという御理解でした。有り難い有り難いと言いよるけれどもです、これほど一生懸命、信心させて貰いよるのだから、もちっとくらい垢抜けしたおかげ頂いても良かりそうなもんと言った様なものがある。だから欲求不満のある限り、本当のおかげにはならんです。
「いいえ、もうそげな欲求不満てんなんてん、是だけ有り難い、勿体ないおかげを頂いとりますから、思いやしません」と、言うておった方が、昨日は「もう先生、今日の御理解を頂いて、ようと自分の心の底を見てみれば、やっぱりあります」とこう言うておられます。あるです欲求不満と言う事は、そのまま不平不足ですから、本当の意味においてのおかのげに繋がる筈がないです。そこでなぜそういうおかげが受けられないか、欲求不満が起こって来る様な事に成って来るかと言う事。
昨日高橋さんの奥さん、ご一緒に参っておられました。それでお父さんが運転される自動車で、お友達の方を一人一緒に導いて、三人で参っておられました。その車の中で福岡合楽間随分時間がありますから眠られた。そしたらそのお夢を頂いたというのです。飛行機がこうあるわけです。所がその飛行機がもうえらい簡単な飛行機で、まぁグライダーのような感じの飛行機である。
そしてじっと下へおりてきよったが、電線に引っ掛った。それでもまぁ具合よう、中に乗っとった人が降りた時に、奥さんがそのお夢の中で思うたこと。ああよかったあれがもしあの電流が通うておったら、あの人はもう感電死さっしゃるとこじゃった。おかげ頂いてよかったと言うところで目が覚めたと。それなんです。乗り物のお知らせは全てお徳と仰る。しかも高い所を飛びますから、高度な徳と言う事になりましょうか。所がその飛行機は非常に不完全なものである。
まぁいうなら、高橋さんが二十年近く合楽に、しかも福岡から毎日毎日日参をされる。福岡におられるよりも、合楽におられる時間の方が多いと思われる位に、様々な御用の上におかげを頂いておられる。もうそれこそ様々な広い意味で御用を頂いておられる。九州中に沢山支店がでけた。あれほどの信心をなさっておられる、あれだけの御用ができておられるのに、成程もう神乍ないうならば、三福鮨という御寿司屋さんが、九州中にあっちこっちにでけたと、それはおかげであった。
所がどっこい最近の不況の風にあおられるというか、儲かっとる店もあるけれども、赤字が続いておるという店もあると言う事。特に人事の事になると、百名からですから「はあ今度の職人は良い職人だ」と思いよったら、すぐそれが出ていったり、また職人の中には本当につまらんという、いちいちお取次を頂いて、いちいちお願いをさせて頂きながら、どうしてじゃろうかと思う様な事もあろうというのです。
奥様もいう、うちのお父さん位熱心に信心する者は他にはおるまいと思ちゃろうと思う。家のお父さん位御用のできる人は他におるまいと思うちゃるやろう。それに例えば人間かんけいなら人間かんけでも、こういう難儀があったり、必ずしも黒字ばかりではない、儲かる事ばっかりではない、赤字もつづくと言った様なじょうたい。どうしてじゃろうかと言う事でありましょう。けれども神様の目からご覧になれば、まぁだその飛行機は不完全そのままのものである。
そのお徳そのものは、高度な所を目指してはおるけれども、実に不完全である。それこそグライダーの様な感じの飛行機である。是が立派な飛行機になる事を、先ずは神様は求めとござるのだ。もし今さぁ売れた売れたと言う様にして、もし黒字続きでおかげを頂いたら、あんた方夫婦がどういう風な事になってくるだろうか。それこそもし今おかげを頂いておったとするなら、おかげと言う事は電流です。今その電流が通うていない。神様がおかげという面に働いてござらん。
叩く面にばっかり働いてござる。電流が通っていないからこそ、おかげで生き延びがでけておる。もし電流が通っておったら、この不完全な飛行機は、もうそのまま感電死せねば成らない様な事にもなり兼ねないのだと。そこでこの信心の徳というものをもっと完璧なものを目指させて頂いて、その暁にこの電気が通うた時にです。それこそ百万燭光という様な明るい光にもなろうじゃないか。さぁ今が辛抱だというお知らせだろうと、こういうて話した事でした。
昨日一緒についてみえる方は、時々みえられる。女ながらも株をやられる訳です。株を買ってすってんてんに、財産を打ち振るように取られてしもうた。それで合楽におかげを頂いて、一々お伺いをしてからと言う事で、おかげを頂いておる。所が最近は石油株かなんかを沢山買うておられたのが、もう愈々地に落ちてしまった。私始めて聞いたんですけれども、ああいう株は買うて損しただけじゃなくてね、損したらね、こっちが出さにゃんげなですよ。私はそれ聞いてからびっくりしました。
いくら安なったっちゃ損したっちゃです、ただ損するだけかと思うたら、そうじゃない。今度はその反対に出さなきゃいけない。というお届けがあっとりました。そしたらここ四五日前です、「先生お願いしよった、あの石油株が、少し値段が出てきました。それで、売らせて頂こうと思いますが」というから、まあ暫く待て待てと言う事であった。待ってから四、五日の間に又下がった。
所がです昨日お参りになられてからのお届けはです、神様にお取次を頂いてお願いをしてからの事であるから、神様の働きに間違いはなかろうと思いますという所である。ちいっとばっかりお礼を言えれる様になった。先生があん時に、まぁ一時待てと言いなさらんなら少しぐらい、お金が入ったじゃろうけれども、と言う訳であります。信心させて頂いて、お取次を頂いて必ずしも、良かった良かったと言う事ばっかりでは決してないと言う事。よかったり悪かったりの中に。
有り難いと思うたり、悪かった所の中に、はぁすいませんとか、又はこの様にしてめぐりのお取り払いを頂いておると言う様な事が分かってくると、御礼を言わなきゃおれない。そう言う所を繰り返し通らせて頂きながらです、いうなら完璧な高度な徳にならせて貰う。そこから頂けれる所のおかげがです、私は本当のおかげだと。それこそ思いもかけないおかげになってくる。願うておかげを頂くのは、それは大した事はない。
今永瀬さんのお導きで、この修行が始まってから、お参りしてきてみえるご婦人があります、近所の方で。もう願わっしゃる通りおかげ頂くです。晩がどうも眠られない。所がお願いしてお参りをすると眠らるる。ちょっと忙しかけんご無礼してから一日参らんと、その日が眠られない。胸が痛いと言いお願いすりゃあ、おかげでそれこそそれが一時のことじゃなく、もう長年の持病の様なそういう病気のおかげを頂いて、お父さんは熱心に長年お稲荷様に参りなさる。
けれどもあんまりのおかげに、とにかくお稲荷様よりか合楽の金光様の方がよかばのというわけで、昨日はお礼参拝してきてました主人が。所があんたの頭が痛いというのがこの人は持病ですご主人が。お願いをしてあくる日からおかげ頂いた。もうちょいとたまがってしもうてから、昨日はお礼に出てきたわけです。と言う様な意味合いのおかげなら、今、合楽ではそれこそ、ざくざくで、そういう程度のおかげなら。
だから信心が分からにゃとか、ここが分からなければおかげにならんと言う様な事ではないと言う事が分かりますけれども、しかしそれでは本当のおかげにはつながらないと言う事。おかげを頂いて有り難い、勿体ない。例えばそれがやれ痛やと言う様な時であっても、有り難いと、心から湧いて来る様な信心をこそ、願い求めなければならないと言う事である。そこから生まれてくるおかげ。
だから願うても願うても、右と願って左となるという時には、愈々神様の願いが成就しておる時と教えて下さるんです。そういう神様の願いが成就しておる、そういう中にです、有り難い勿体ないの信心が頂けて、初めて高度な徳になる。そこにはですそれこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開になるのです。その夢にも思わなかった様なおかげの展開というのがです。
それはもうこの世だけではない、あの世までも続くと言う程しの事なのですから素晴らしいです。だからそこを目指さなければいけないと言う事になります。是ほど信心するのに、どうしてと思う様な事もあろうけれども。そういう時にですすいません、私共の信心が足りませんから。又は改まりが足りませんから、一心が足りませんからと、お詫びをしていく心の状態から。
段々やれ痛や今みかげをと思えるほどしに、有り難しが出て来る様な信心を、ここでは神様の願うておられる、そういう私はみ教えだと思います。ここん所が体得出来たら、素晴らしい事でしょう。困ったと言う事がない。どんな事が降っても照っても有り難いなぁ、勿体ないなぁと言う事になるのですから。どうぞやれ痛やという心で、有り難し今みかげをという心になれよとおおせられる、なるための精進が愈々必要であります、
どうぞ。